とどまる、感じる、ひらく

流れている

2024年04月01日 23:33

 うちのマンションは川沿いに建っているので、朝のごみ捨てのついでに、しばし川のほとりにたたずむ。草木や空や鳥たちとともに、しばらくそこにいる。水に目をやり、その淀みない流れを見ていると、「ああ、流れている」と思う。

 本来、私たち人間も常に流れ続けている存在である。川の流れとともにいると落ち着くのはそのせいかな、などと思ったりする。


 十年以上前のこと、しばらくカウンセリングに通っていた。カウンセラーの女性に最近あった出来事を話すと、「それで、ゆりさんはそのことについてどう思いますか?」と聞かれた。しばらく考えてから「わかりません」と答える。「では、それがお友だちから聞いた話だとしたら、どう感じますか?」と再度問われる。今度は間を置かず「ひどい旦那さんだと思います」と答える。「でしょ~」と返されるが、それでも自分の感情は動かない。こんな感じなので、長らく自分は鈍感な人間なんだろうと思っていた。


 それが、初めてぽこぽこを訪れ、郁恵さんのセッションを受けたときに、郁ちゃんから「あなたは感性の鋭い人なのね」と言われ、ちょっとびっくりしてしまった。「いろんなことを感じすぎてしまうと大変だから、感覚を閉じることで生き延びてきたんだね」と言われて、そうだったんだ……とホッとする感じもあった。これからは、たくさん感じたらいい。そうすれば、楽しいことも嬉しいことも、もっともっと感じられる。そんなようなことを言われ、とにかくどんどん感覚を開いて感じていこうと思ったことを覚えている。


 ぽこぽこに通ってワークをするうちにわかったのは、感じないようにしていた間の感覚は、なくなってしまったのではなく、からだの中にしっかり残っているということ。つまり、何十年分もの思い出したくない記憶とともに封印している感じたくない感覚は、全部からだが請け負ってため込んでくれているということだった。


 からだというものは、いろんなものが入ってきては出ていくというように、つねに流れているのが本来の姿なのに、そこに無理に何かを押し込めて出てこないようにするというのは、不自然極まりないことなのである。けれども、「感じてしまっては生きていけない」といのちが察知したら、そうやって押し込めてでもいのちは生きるほうを選ぶ。とくに幼い頃は、感情のキャパシティも狭いので、大人になった今なら冷静に処理できる感情でも、生き死ににかかわる大問題だったはずだから、幼い頃に封印された感覚というのは、自分が思っている以上にたくさんある。


 ぽこぽこに通った初期の数年は、ワークをしてひとつひとつその封印を解いていく作業の繰り返しだった。ある日、中学生の頃にあった出来事を題材にワークしていたとき、ものすごい怒りのエネルギーが湧き上がってきた。それは、ワークの間だけでは終わらず、帰りの電車を待つホームで、お腹のあたりにマグマが燃え盛る活火山が火を噴いているようなイメージが浮かび、とにかくじっとしていられないようなエネルギーのうごめきを感じていた。次の日になってそれが落ち着いた頃には、妙にからだが軽くなっていた。


 あの頃に比べれば、いまではずいぶんと内側のスペースも広がり、流れもよくなったと思う。いつも流れている。川の流れのように、空の雲のように。



ゆり(2024年4月1日)