「死にたい」「庭に埋めたものは掘り起こさなければならない」を読んで(part2)
2025年07月15日 19:51
〔Part1はこちらからお読みください〕
私たちの日々の暮らしの中で、「死にたい」と思うことは決して珍しいことではありません。自分が何をしてもダメなとき、誰にも自分のことをわかってもらえないときなどです。そんなとき、私たちは自分とどのように向き合えばいいのでしょうか。
著者の齋藤美衣さん(以下美衣さん)は、父の日記や書物から、急性白血病で余命5年であると知り、罪悪感や孤独感に苛まれながら懸命に生きておられました。あるときに祖父の言った言葉がきっかけとなり、過食嘔吐が始まります。それと同時期に自傷行為も始まったということです。過食嘔吐を行うのは、自分の苦しみやいろんな感情を貯めておくことができないためで、そして自傷行為も含めて「もともと気薄だった自分のからだの知覚を明らかにすること」と語られています。
美衣さんには、繰り返し見る夢がありました。人を殺して庭に埋める夢です。この夢は、「白血病で(同じ病室だった子は死んでしまったのに)自分だけが生き残ってしまった罪悪感、過食嘔吐する行為にまつわる罪悪感、発達障害傾向を持っているため子どもの頃から世界に馴染めないことで感じる疎外感、劣等感この3つから成り立っている」と語っています。
そして、「死にたい」は、この繰り返し見る夢から来ているのではないかと気づきます。もしかしたら「自身を殺して庭に埋めていたんじゃないだろうか」、もしかしたら「かつて埋めていた自分の気持ち(罪悪感、疎外感、劣等感)を少しでも感じてしまったときに、『死にたい』がくるんじゃないだろうか」と洞察しています。つまり、これまで生きていくために、自分の感情を深く「埋めて」感じないようにしてきた、ということです。自分の本心を隠し、感情に蓋をし、それでもどうしようもなくなって、それ以上どうにかするには、からだまで殺してしまわないと仕方がなくて、だから「死にたい」がやって来るんじゃないだろうかと。
美衣さんは、「食べること」と「性的なこと」には共通点があると言います。どちらも人間の営みの中心であり、生きることに直結している行為です。そして、どちらも「自分でないもの(他者)を受け入れ、自分と融合させることだ」と言うのです。
美衣さんは、この「融合」のプロセスに不具合が生じているのではないかと考えます。だからこそ、生きることを難しく感じ、不安で寂しさを抱えているのではないかと。
「死にたい」のイメージは、「柴犬くらいの大きさで、全体が黒く楕円みたいなシルエット。境界線はぼんやりで手足はない。手足はないのに、刃渡りの長い包丁を持ってわたしの脇腹をゆっくり刺してくる」ということです。
美衣さんは、「私は庭に埋めた死体を掘り出す必要がある」と決意します。しかし、生きるために深く埋めてしまった自分の気持ちを掘り起こすことは、あまりに恐ろしいことです。なぜなら、その気持ちを持ったままどうやって生きていくのかを、美衣さんはとっくに忘れてしまっているからです。
それでも、美衣さんは「脳内の痛みを感じることで『生きている』を感じている」と語ります。死んでしまうくらいの苦しさでしか「生きている」ことを確かめられない、これほどの強さで「生きている」ことを求めながら、生きることがこれほど困難であることに寂しさを感じているのです。
「死にたい」という言葉の裏には、ほとんどの場合、「生きたい」という強い願いが隠されているのだと思います。過去のトラウマから「どう生きていけばわからない」と感じている人もいるでしょう。でも、「どう生きていけばいいかわからない」と考えること自体が、実は「生きたい」と願っている証拠なのだと思います。
私にも、同じような苦しい時期がありました。小学校の頃には「死んでおけばよかった」と。そして10年ほど前には、「死にたい」というよりも、電車に飛び込もうとする強い衝動に駆られたことを覚えています。しかし、ものすごく意識的にその衝動を抑え、最終的に死ななかったのは、自分の潜在意識に「生きたい」という気持ちがあったからだと、今ならはっきりとわかります。
美衣さんのように、心の奥底に「埋めたもの」を掘り起こすことは、並大抵のことではありません。それは、今まで当たり前のように皮膚に張り付いていたものを、無理やりはがすようなものなので、必ず痛みが伴います。
だからこそ、もしあなたにトラウマのような過去があり、「埋めたもの」を掘り起こす必要があると感じたら、信頼できるセラピーや心療内科を受診しながら行うことを強くお勧めします。
美衣さんがそうしたように、自分の感情や気持ちを書き出し、考察していくことは、苦しいながらも大きな力になります。誰に見せるわけでもないので、自分の気持ちそのままに書くことで、心の整理ができ、「こんな感情があったのか」という新たな発見にも繋がります。この方法を試すときは、ゆっくりと焦らず進めることが肝心です。
次回は、「謝る」と「許す」の真意について書きます。
信暁(2025年7月14日)