とどまる、感じる、ひらく

「謝る、許す」『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』を読んで(part3)

2025年07月23日 16:56

〔Part1はこちらから・Part2はこちらからお読みください。〕

 

 「謝る、許す」という行為は、日々の生活の中で普通に行われていることです。「謝る」とは本来、「過失や罪を認めて許しを求める」行為であり、そのベクトルは相手の方に向いているはずだ、と著者の齋藤美衣さんは言います。なぜなら、その目的は「許しを求める」ことにあるからです。この「許しを求める」行為には、相手の気持ちを深く想像し、それに寄り添う姿勢が不可欠であると美衣さんは指摘します。

 

 しかし現実には、本来の意味が失われ、「謝るために謝る」という形だけの謝罪が思いのほか多いのではないかと美衣さんは言っています。出産時の夫の一言や、白血病を知った経緯についての両親からの謝罪は、美衣さんの悲しみや苦しみを「なかったこと」にし、結果として「自分は大切にされていない」という深い孤独感と罪悪感に繋がっています。形式的な謝罪は、謝罪された側の素直な感情を「わがまま」として片付けてしまうため、美衣さんの苦しみからくる切ない、悲しい、苦しい、つらいという感情を引っ込めてしまいます。そして美衣さんは、「死にたい」という気持ちと一緒に、この感情を庭に埋めてしまったのです。

 

 「許す」という言葉も「はい、それだけ謝ってくれたし、今の気持ちも聞かせてくれたから、わたしは今から許すね」というような、形だけの「許す」として扱われているのではないかと、美衣さんは言っています。

 

 「わたしは両親を許していない」「許さないことを許してほしい」 「ものすごく単純なことなのだけれど、わたしはちゃんと『謝って欲しい』」と両親に対して思っています。自分の気持ちを庭に埋めたまま両親を許してしまうと、再び自分を殺してしまうことになると感じているのです。そうすると、二度と関わりを持てなくなると。本当は、「両親と関わりを持ちたい」と思っている切実な願いが、両親の謝罪に対しての美衣さんの気持ちには込められています。

 

 「許す」という行為は、「他者に何かを与えたり、他者について自分自身の思いや考えを変えることではない」と美衣さんは気づきます。「許す」ということは、「生きることであり、生きることの中心にあるのは、他者と共にわたしがあること」だと。他者に比重を置いて考えていたが、そこには自分がいなかったことにも気づきます。そして「許す」とは、「他者と共にあるわたしであることを楽しみ、喜び、愛し、その未来を願って祈ることだ」という新しい意味を見出します。

 

 またこのことは、料理を作ることにも繋がっていることに美衣さんは気づきます。「食べたいと感じたものを、わたしのために作って食べたとき、30年以上ずっと苦しんでいた『食べたものを胃に留まらせられない』ということがなくなった」そうです。そして、料理も楽しめるようになったことから、これが「許し」なのだと確信したというのです。

 

 美衣さんは、「これまで世界をどうしても信頼できなかった。わたしは世界にことごとく裏切られてきたと感じていたからだ」と言います。それが、「許し」を確信したことにより、「世界を許すことは、世界の中に自分があってその世界を信頼してみようと思うことだ」と内面に変化が起こりました。

 

 「謝る、許す」ということに関して、私自身にも苦い思い出があります。以前から何度も書いていますが、母親と長男に騙された出来事についてのことです。

 

 30代のときに母親に、「騙されたことが今までずっと引っかかっていて、思い出してもつらい」というようなことを言ったら、「まだそんなこと考えてんのか」と一蹴されました。謝罪なんてどこ吹く風でした。この言葉を聞いたとき、「やっぱり自分がいつまでも騙されたことについて悩んでいるのはおかしいことなのかな」と罪悪感を覚えました。 


 長男にも、「騙されたことで恨む気持ちもあった」というようなことを言ったところ、感情のない「悪かったな」というメールが来ただけで、その後はもう絶縁状態となっています。私のからだに残った気持ちは、癒えないまま宙ぶらりんになったままでした。

 

 美衣さんが両親に対して「許していない」というのは、まだ咎めているのとは違い、それを思い起こすときの感情は怒りではなく、「ただすーんとさみしくなる」のだそうです。「胸がじっとり塗り込められたように悲しくなり、わたしはその人にとって、自分が取るに足らない存在なのだと感じる。わたしはその人に大切にされていないと感じる。いや、感じるというやさしい感覚ではない。わたしはその人に大切にされていないと知ってしまう。だからたまらなくなる。こんな近しい人からも、大切にされていないのだと知らしめられる。たまらなく、苦しくなる。悲しくて、切なくて、いても立ってもいられなくなる。世界のどこにもわたしを受け入れてくれる場所がないと突き付けられたようだ」

 

 この文章を見たとき、私も同じ気持であったということに気づきました。母親に告白したとき感じた気持ちは、「ただすーんとさみしくなる」だったのです。

 

 今のわたしは、母に誤ってほしいとは思わないし、「許さないことを許してほしい」とも思いません。「私は私の人生を生きる」ただそれだけです。

 

 次回は、「時間、身体、わたしを取り戻す」について書きます。

 

信暁(2025年7月23日)