とどまる、感じる、ひらく

自分にとってのマインドフルネス

2025年08月07日 18:06

 マインドフルネスとは、過去でも未来でもない「いま・ここ」に意識を向け、ただ起こっていることに気づくことです。たとえば、聞こえてくる音、自分の呼吸、身体の感覚や湧き上がる感情に対して、良し悪しの判断をせず、ただそのままを受け取ることがマインドフルネスです。

 私にとってのマインドフルネスとは、「いま・ここ」に留まりながら、自分の感覚や感情にそっと気づき、その気づきをきっかけに、自分の内面と静かに向き合うことです。それは、何かを解決しようとするのではなく、ただ気づくことで、自分の奥深くに眠っているものにアクセスしていきます。


 今の自分は、日常生活の中で何か出来事が起こり、そのことで気になる部分があると、それはなぜ気になったのかを「いま・ここ」に留まりながら静かに見つめるようにしています。その気になる部分は、自分に何かを教えてくれているのではないかと想いを馳せるのです。けれども、教えてくれているものがすぐに見つかることは、あまりありません。そんなときは、出てくるまで無理に留まるのではなく、「そこからいつか教えてくれるものが出てくるであろう」と心の片隅に置いておきます。


 マインドフルネスをする時間があるときには、ゆっくりと「なぜこのことが気になったのだろう」と「いま・ここ」に留まりながら、感覚に寄り添うこともあります。そして、あるとき何かに気づいたときには、その気づきが、「自分に何を教えてくれているのだろう」と見つめます。決して考えることはしませんし、探すこともしません。ただ気づくことに留まっているだけなのです。


 例えば、日々の生活の中で「気持ちが落ち込んでいることが最近多いな」と気づくときがあったとします。このとき、「気持ちが落ち込んでいると良くない」と落ち込みを追い出すのではなく、ただ落ち込みに留まってみるのです。そして、「気持ちの落ち込みが自分に何かを教えてくれているのではないか」と、落ち込みを見つめます。何も出てこないときは、その落ち込みを一旦心の片隅に置いておきます。後日、ふとした時に「あーそうだったのか」と気づくときも多々あります。


 少し前に、イライラすることが増えていることに気づきました。そんな時に限ってYouTubeの動画を見る頻度が増えることにも気がつきました。特に、理不尽なことに対して怒っている人の動画を好んで見ている自分がいたのです。

「なぜ私はこのような動画を見てしまうのだろう」

そう思ったとき、私は「いま・ここ」に留まりながら、自分の内面に意識を向けてみました。「その動画が、私に何かを教えてくれているのではないか」そう感じながら見つめてみましたが、そのときにはまだ、奥にあるものには気づけなかったので、心の片隅に置いておくことにしました。


 あるとき、ふとしたことで過去の記憶が蘇りました。それは、過去に先生や親に理不尽なことで怒られている場面でした。そのとき、「いま・ここ」に留まってその場面に寄り添いました。すると、ただ黙って怒られ、反論すると「子どもは親に口答えしない」とか「反省が足らん」などと言われていたことも記憶の中に出てきました。その記憶の奥には、「自分は怒られる存在」「自分のことを誰も分かってくれない」「自分はひとりぼっち」という思いが横たわっていました。さらにその奥には、「自分の気持ちを分かってほしかった」「そのままの自分を見て欲しかった」「自分の寂しさを分かってほしかった」という切実な思いが眠っていたのです。こういった奥底に眠っていた思いが、自分のイライラを生み出していたのだと気づかされました。自分の中に眠っていた思いを掘り起こすことによって、それ以来ひとつのイライラが減りました。


 このように、日常の中でふとした違和感に気づき、それに留まりながら内面を見つめることで、奥にある声に出会うことがあります。そして、そのひとつひとつに気づき、自分の奥底に眠っているものを掘り起こすことによって、自分の生きづらさに変化が起こってきます。


 私自身は、このように日常生活の中で自分に違和感を感じたときに、マインドフルネスを行っています。常に、自分に何か疑問を持ったとき「いま・ここ」でそのことに気づくようにしています。

ただひとつ言えるのは、「いま・ここ」に留まることでしか、日常の気づきにも、本当の自分にも出会えないということです。


 ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンも言っています。

「私たちの住まいは過去にはありません。未来にもありません。それは『今・ここ』でしか手に入らず、それこそが私たちの本当の家なのです」と。(出典:『スタンフォード大学・マインドフルネス教室』スティーブン・マーフィ重松著)


信暁(2025年8月7日)