「時間、身体、わたしを取り戻す」 『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』を読んで(Part4)
2025年07月30日 13:56
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時間というものは目に見えないものであり、自分が意識していないとすぐに自分から離れて行くように感じます。気づけば一日が過ぎていた、いつの間にか数年が経っていたと、そんなふうに感じることはよくあることです。時間の意識がなくなることで、後悔や驚きが起こることもしばしばあるのではないでしょうか。
著者の齋藤美衣さんは、以前の自分について、「わたしの時間の感覚は、ずっとちぐはぐだった。身体の認識もそれと同じように曖昧で、どこかバラバラだった。過去と現在が滑らかにつながることなく、点々と途切れたまま、まるで破線のような時間が流れていた。身体はいつも重さがなく、空間の中で自分の位置を見失っていた。時間もまた、同じように手の中からこぼれ落ちていった」と書いています。
しかしその後、時間が連なりとして感じられるようになり、「ひとつの滑らかな川のように、緩やかに流れているような気がしている。それは、身体の輪郭をひとつの存在として感じられるようになってきたことと、何か深いところでつながっている気がする」と言っています。彼女自身に中に変化が訪れたのです。
お昼に自分の食べたいものとして、おにぎりを作って食べたときのことを美衣さんは思い出します。「おにぎりを作って食べたことから、母のおにぎりを思い出す。そして、母のおにぎりを食べたいと思う。しかし、母から電話があると、いつも息が止まりそうになる。じっと息を止めて、気持ちを張り詰めて、それが鳴り終わるまで続く。鳴り終わって息をつく」「そのあとも、わたしは実家に電話を掛け直すことができないでいる。わたしは何を受け入れ難いのかわからなくなる。そしてだんだん考えているとつらくなってくる。苦しくなってくる。わからなくなってくる」。そんなふうに、自分自身の内面の葛藤を語っています。
過去の記憶は消えておらず、心の奥に静かにしまわれていたものが、今になって少しずつ開かれてきているのです。心には時間が必要であり、過去とともに生きている自分を感じる瞬間があります。両親との関係の痛みがある一方で、自分の子どもたちにも苦しみが連鎖しているのではないかという思いから、誰かを責めることもできず、かと言って自分が傷ついたとさえ言えないもどかしさを持ち合わせています。こんなとき、美衣さんに「死にたい」という思いが訪れますが、それと同時に「生きたい」という想いも確かに出てきます。身体と時間の感覚が、自分の中心に小さくとも確かな芯のようなものを感じています。
「触れる」ことにも美衣さんは言及しています。「『触れる』ことがもたらすのは、『わたしがわたしであることの祝福』であり、『あなたがあなたであることへの祝福』でもある。それは『許す』『許される』ことにも似ていて、根源的で、本質的なもの。触れることができない関係の中で、わたしは長く生きてきた。それは、わたしがわたしでいられない世界だった」と。
このときケイトウの花を思い出し、小学校4年生の時の、怖くて、痛くて、いやだった体験の記憶を思い出します。その花はずっと美衣さんにとって恐怖の象徴だったのです。しかし、「当時『触れられた』わけではなく、むしろ『触れられない』体験だったことが印象に残っている」ということから、今でもその痛みが癒されていないことに気づいています。そして、「死にたい」から逃れるための男の人とのセックスにおいても「『触れられない』感覚が同様に現れ、それが過去の傷の再確認となっている」と語っています。けれども、現在は自分のためにケイトウを飾り、料理を作るなど、少しずつ自分の身体を自分のものとして迎え入れ、それが自分のものとなっていっている様子を語っています。
美衣さんは、自分を取り戻すことによって「触れる」ということに対して抵抗がなくなりました。しかし、「傷は消えない。記憶は変えられない」とも言っています。そして、「傷は消えなくとも薄くはなる。記憶に上書きすることはできる。それはうっすらと紗を被せたような弱々しいものかもしれない。そうかもしれないけれど、生きることはそこから始まるのではないか。そこからわたしは再び生きられるのではないか」と締めくくっています。
時間の感覚がないということに関して、私にも思い当たることがあります。小学生の時、毎日誰かに怒られ、家族に監視されているようで、気の休まるときがありませんでした。自分の時間があってないようなもので、時々空を見て「ぼ~」っとしていると、時間が知らず知らずのうちに過ぎているということもありました。そんな時、私の場合は「死んでいたらよかった」が来ていたのです。私の場合は、時間の感覚をしっかり感じられるようになったのは、40歳を過ぎてからマインドフルネスのセッションをするようになり自分を取り戻してからでした。
美衣さんが、母のおにぎりを食べたいと思っても、母に電話で「おにぎりが食べたい」と電話することはもとより、電話がかかってきても息が詰まるという、その感覚は私もよくわかります。美衣さんが、自分が白血病であることを知った時の話をしたとき、両親が「私たちも苦しかった」と言ったことから、美衣さんを小さい頃からコントロールしていたのではないかと推測されます。このコントロールされていることが原因で、電話がかかってきても息が詰まるのかもしれません。
私の場合も、同じように母親にコントロールされてきたので、未だに電話で話したくないです。電話がかかってくると嫌悪感のほうが先に立ちます。どうしてもコントロールされてきた過去を許せない自分がいます。許せるようになるのか、そのままなのかわかりませんが、私は自分の「いま」を正直に感じ、母親に対する嫌悪はそのまま感じようと思います。
「触れる」ということに関して思い出されるのは、幼少の頃のことです。自分が母親に触れて欲しいとき、触れたいときは拒否され、反対に触れて欲しくないときに触れてくるのです。だから、他人と触れ合うということにおいては未だに戸惑いを隠せません。相手から求められれば答えることはできますが、自分から求めることは難しいと感じます。
私は、この本を読みながら、美衣さんが自分を取り戻していった過程を自分自身にダブらせていました。両親にコントロールされていること、罪悪感や孤独感、幼少期の疎外感など、形は違いますが自分も同じような経験がありました。自分も同じようにマインドフルネスセッションをしながら、自分の内面を掘り起こしていきました。掘り起こしていく過程で苦しくなり、自分一人でいるとき希死念慮も出ました。しかし、希死念慮が薄まると楽になってきている自分もいたのです。それが、「死にたい」という思いを押し留めていたのだと思います。
だからと言って、美衣さんも言っている通り「傷は消えない。記憶は変えられない」のです。けれども、「傷は消えなくとも薄くはなる。記憶に上書きすることはできる」のです。これは、自分の生きる意味が変わってくるということです。私自身は、過去の傷は癒えてきており、過去に生きていた自分が、未来に目を向けられるようになりました。
私は美衣さんの最後の言葉から、「あんなことがあったから、わたしはもう生きられない」という思いが、「あんなことがあっても、わたしは今生きている。自分の足で立って自分の道を生きている」という風に最終的に変化していくのではないかと想いを馳せています。
信暁(2025年7月30日)