とどまる、感じる、ひらく

人身事故に遭遇して──身体が語る記憶と気づき

2025年09月04日 10:15

人身事故に遭遇 

 先週、私は人身事故を起こした電車に乗っていました。電車はちょうど駅に停車する形で止まり、駅員や警察、レスキュー隊の方々が慌ただしく動く様子が車内から見えました。 

 当初の再開予定は1時間20分ほど後でしたが、実際にはほぼ2時間かかりました。その間、私は電車の中で待機し、やがて回送電車になるということで駅で降ろされました。予定をキャンセルし、帰宅しようと反対側のホームへ向かったとき、亡くなった方の遺体が担架で運ばれている場面に遭遇しました。逃げ場もなく、その横を静かに通り過ぎるしかありませんでした。 

 遺体が運ばれた後、警察と駅員の方が線路に降り、何かを拾っているのが見えました。それが何かと目を凝らすと、亡くなった方の肉片を袋に入れ、その場所に水をかけているところでした。 

 その光景を見た瞬間、昨年の人身事故の記憶がよみがえりました。電車の先頭車両の前面に付着した血と肉片の光景。それが私の身体に深く刻まれていたことを、改めて思い知らされました。そして、過去の「死にたいと思った気持ち((希死念慮)」も出てきました。すぐに家に帰る気持ちにはなれず、近くの神社で手を合わせてから帰宅しました。 

 

セッションでの気づき 

 この体験をきっかけに、私はセッションを受けました。人身事故に遭遇した場面から始まり、亡くなった方の遺体の横を通り過ぎたときの感覚、昨年の記憶、そして自分の過去の「死にたいと思った気持ち(希死念慮)」へと話が進みました。 

 セッションでは、すべてを身体の感覚から見ていきました。その感覚が心地よいものか、嫌なものか、あるいはどちらでもないのか。そして、そこに留まっていると何が現れてくるのかを丁寧に探っていきました。 

 その過程で、自分が亡くなった方を成仏させたかったこと、そして過去の希死念慮が再燃していたのではなく、過去の苦しみが蓄積された結果として現れていたことが分かりました。 

 以前、希死念慮が出てきたときは、マインドフルネスのセッションをして過去に気づいていく中で、身体がその気づきに慣れていなかったため、溜まっていたものが一気に表出した結果なのだと思っていました。でも実際は、過去の苦しみが重なって希死念慮となって表れたのです。セッションでは、過去の苦しみから希死念慮まで一本の線となりました。 

 

希死念慮への考察 

 人身事故に2度も遭遇しただけで、私は「なぜここまで反応するのか」を理解しました。自分の過去の苦しみは、思っていた以上に深く、時に「死ぬほどの苦しみ」だったのです。 

 希死念慮(死にたいと思う気持ち)は、決して特別な人だけが抱えるものではありません。それは、人生の中で積み重なった苦しみの背景から生まれるものです。失恋、いじめ、貧困、介護疲れ──そのきっかけは人それぞれで、挙げればきりがありません。 

 でも、「その出来事だけが原因だった」と単純化してしまうと、その人の物語が見えなくなってしまいます。希死念慮は、そんなに単純なものではありません。 

 すべての人には、その人だけの人生の物語があります。希死念慮を抱く方にも、きっとその方なりの物語があるのです。その物語には、苦しみが多く含まれていたのかもしれません。 

 その苦しみは、身体的虐待やDV、ネグレクトのように明らかなものだけではありません。何不自由なく育てられたように見えても、心理的虐待やガスライティングのような目に見えにくい苦しみもあります。そうした苦しみは、自分にも他人にも気づかれにくく、理解されにくいものです。 

 もしあなたが、理由もなく苦しいと感じているなら、それは理由がないのではなく、まだ気づかれていない苦しみがあるのかもしれません。 

 どうか、一人で抱え込まないでください。希死念慮がないふりをして、日常を過ごさないでください。 

 まずは、自分の苦しみを、自分自身が理解してあげること。それだけで、心は少しずつほどけていきます。 

 自分に見捨てられるほど、辛いことはありません。 

 だからこそ、あなた自身が、あなたの味方でいてください。 

 

信暁(2025年9月3日)