季節外れの赤とんぼ
2025年12月18日 19:04

赤とんぼを見つける
この間の朝、ベランダにあるガジュマロの鉢植えの土の上に、赤とんぼがいるのを妻が発見しました。羽を一生懸命動かしていましたが、飛べない様子でした。少しでも飛びやすいようにと枝の上に置いてあげたということですが、後で見るとまた土の上に落ちていました。
しばらくすると動かなくなったので「死んだのかな」って思ったのですが、少しだけ動いていました。昼頃まではベランダに日が当たるので、少しでも陽の光で暖かさをもらえれば少しは元気になるかもしれないと思い、そのまま置いておきました。
寒い日が続いていたのですが、また暖かくなり間違って孵化して出てきてしまったのかもしれないと妻と話していました。しかし夜は冷え込み、弱ってしまっている姿が痛々しそうでした。水を上げれば少しは元気が出るかと思い、葉に水滴を垂らし近くに置いてみましたが、水のある方とは違う方向に向きを変えてしまいました。家の中に入れて暖かい場所で過ごせば少しは元気になるかなと思いましたが、結局そのままにしておきました。
赤とんぼの死に場所
このまま寒いところにいても今夜の寒さに負けて死んでしまうので、何とかならないかと思いを巡らせていました。暖かい部屋の中には、シクラメンの花の鉢植えがあるので、どうせ死ぬのならその花に囲まれた葉っぱの上で逝くのがいいのではないかと思いました。
しかし、その時にふっと思ったのです。赤とんぼは、恐らく自分が死ぬことを察して、ガジュマロの木の下を死に場所として選んだのではないかと。もしそうなら、私が勝手に別の場所へ移すことは、赤とんぼの意思を踏みにじることになるのではないかと考えました。そうなれば、赤とんぼも死にきれないのじゃないかと。そう思うと、私の行為はただの人間のエゴであり、赤とんぼの境界線を侵害することになると気づきました。
尊重する気持ち
だから私は、赤とんぼの気持ちを尊重し、何もせずそのままにしておくことにしました。夕方少し寒くなってきたときに、赤とんぼを部屋の中から見ると、赤い尻尾を上に持ち上げてくれました。これを見た私は、勝手な想像かもしれませんが、赤とんぼが「ありがとう、さようなら」と言ってくれているような気がしました。
翌日、赤とんぼはひっそりと息を引き取っていました。その後、近くの祠の木の下にそっと置いてきました。
得てして私たちは、自分の好ましいと思う環境が一番いいと思いがちです。暖かい場所、気持ちがいい場所など、そういった場所をすべての生き物が求めていると。しかし、生き物によって住む世界が違います。虫にとっては、家の中は住むためには居心地が悪い場所かもしれません。こういったことは、生きている生き物に対しては理解できるのですが、死ぬ間際の生き物を見てしまうと、「少しでも良い場所で逝かせてあげたい」と思いがちです。これこそ、まさに人間のエゴであり境界線を侵害した行為なのでしょう。
「何かしてあげたい」という気持ちの裏に
私たち自身も、他人には境界線を踏みにじられたくありません。たとえ死ぬ間際であっても、死に場所ぐらいは自分で決めたいと思うのではないでしょうか。
境界線というものは、人間だけにあるのではありません。すべての生き物に存在します。そして、その生き物の境界線を尊重することが、必要であるのかもしれません。
私は、この赤とんぼから、エゴや境界線を侵害することは、簡単に起こしてしまいがちなのだと、改めて気づかされました。だから、今一度、相手に対して「何かをしてあげたい」と思ったときには、自分のエゴは出ていないか、境界線を侵害していないか、ということを考えて行動したいと思います。
信暁(2025年12月18日)