我慢は美徳ではない
2026年02月25日 19:26

“我慢”その一言が私を苦しめた
私は、「我慢」という言葉が嫌いです。その理由には、子どもの頃よく我慢をさせられていたことが関係しています。
「あれが欲しい」「我慢しなさい」
「あれが食べたい」「我慢しなさい」
すべてにおいて、こんな感じです。 勉強に対しても、「嫌なことを我慢して頑張れば、後は楽だから」と言われていました。「我慢すればいいことが待っている」「我慢すれば人よりも強くなる」と、さも我慢が美徳のように言われ続けていました。
我慢を美徳とする背景
私の親は、戦争を経験しています。戦時中は、「欲しがりません勝つまでは」ということで我慢を強いられ、戦後は食べるものや着るものがないため、我慢せざるを得ない状況でした。高度成長期に入り、お金も物も手に入りやすくなり、生活は一変していきました。こういった変化が「我慢すればいいことがある」という思いを、より強調することになったのかもしれません。
もともと日本人は、歴史を顧みても我慢することが当たり前に普通の生活に溶け込んでいたので、私たちの中に「我慢は当たり前」という価値観が根付いていったのでしょう。
家族の中で学んだのは「愛」ではなく「我慢」だった
私の我慢は、赤ん坊の時から始まっていました。母親は、赤ん坊の私が泣いているのに気づいていても、反応してくれることはあまりなく、いつもほったらかしにされていました。
物心ついたときに初めて買ってもらったパンダのぬいぐるみは、最初に一目見ただけで、その後は「汚くなるから」と言われ、自分の手の届かないところに隠されました。結局、二度と手に取って遊ぶことはできませんでした。
小学生の頃は、兄に勉強を見てもらっていましたが、兄の憂さ晴らしの標的になっただけでした。私は嫌だったのですが、なぜか親は見て見ぬふりで成績が上がるわけでもなく自分だけが我慢させられたのを覚えています。
家族から理不尽なことをされても、
「笑って我慢をする」
「何を言われても黙って我慢をする」
これが家族との関係でした。
それは、外の世界にも影響を及ぼしました。我慢させられることが当たり前のように自分の人生の中に入り込んでいたので、いつしか自分は「我慢する存在」となっていきました。だから、何かあれば「自分さえ我慢をすればいい」と自分を犠牲にするようになりました。
我慢がもたらしたからだのSOS
こうなると、人生の中で我慢させられるような出来事と遭遇しやすくなります。実際、仕事などで理不尽なことをされても、お得意の「自分さえ我慢すればいい」という考えで済ませてしまうため、人間関係においては、人間不信にまでなりました。
その結果、罪悪感、劣等感、疎外感、無力感、絶望感、自己嫌悪……そんな感情に捉われ、「人間失格」という烙印を知らず知らずのうちに自分に押していました。自分の心は病み、それが食欲不振や睡眠不足を引き起こし、下血、腎臓結石や十二指腸潰瘍など、からだにも悪影響を及ぼしました。
このときに「我慢」がこういうことを引き起こしていると気づけばよかったのですが、
「自分が弱いからこんなことになる」
ともっと自分を追い詰めることをしました。
一人で何もかも抱え込み、「一人前にできるようになれば人は認めてくれて、今よりもすべてにおいて楽になる」と思い、頑張りました。これこそまさに、自分に我慢を強いていることでした。そして私は精神崩壊寸前のところまでいってしまいました。
我慢は決して美徳ではない
こういった経験から「我慢」というものは、決して美徳ではないと思うのです。確かに、自分の目標に向かうために「我慢」をしなければならないときもあるでしょう。しかし、これは「我慢」というより「諦めない心」と言った方が適しているのではないかと思います。自分が本当にやりたいことを目標にしているときは、我慢をしているなんて1ミリも思っていないですから。
私が学生だった昭和の頃、集団で何かをするときは、「輪を乱さない」「自分勝手なことはしない」「みんな同じ方向を向かないといけない」など、 生徒が先生に我慢を強いられていました。今は、多様性が尊重され「やりたくなければやらなくていい」という風潮があります。私はそれでいいと思います。
やらない人に対して文句を言う人や、自分がやらないだけならまだしも、他人を巻き込んでやらせないようにする人もいますが、それも違うと思います。こういった人たちは、我慢を強いていた先生と同じことをしていると気づく必要があります。
やりたくないならしなくていい
人間は本来自由なのです。
自分の気持ちに正直でいいのです。
「やりたいからする」
「やりたくないからしない」
それだけでいいと思います。それしかないのです。
だから、我慢は決して美徳ではありません。
信暁(2026年2月25日)