大人になるということ
2024年04月12日 00:10
子どものときには、すべてのものが真新しく好奇心をそそるものばかり。だから、子どもの目は好奇心に溢れ輝いている。怖いものを知らないため、何に対しても物怖じしない。子どもがその好奇心にまみれて素直な気持ちで育っていくと、大人になっても自由な心で生きていく。
大抵の子どもはそうならない。どうしても子育てにおける親の言動がつきまとう。これを親は躾と呼んでいるのだが。
親の発する言葉や行為は、親が生きてきた環境に左右される。親の生きてきた環境が窮屈なものであれば、その子どもにも窮屈な生活を強いる。親が厳しい家庭に育てば、その子どもも厳しく躾られる。一歩間違えると躾という名の虐待にまで発展しかねない。
ひとつの例として、自分のことを話そうと思う。自分の親は、外面のいい親だった。自分は、特に母親が世間から良く思われるための道具でしかなかった。母親は、子どもが何をしたいと思っているかなど一切構わず、このようなことを子どもにさせれば自分は良い母親であると思われるだろうということしか考えていなかった。その上で、子どもを支配してきたのである。このような母親に育てられると、自分が甘えたいときに甘えることをさせてもらえない。母親が自分になびいてほしいときにだけ、甘えることを許可されるのであった。
幼少のころは、自分がそんなことをされているとは思いもしなかった。自分自身は、「自分が悪いから優しくしてもらえないんだ」と思い、「自分が良いことをしたときだけは優しくしてもらえる」という寂しい考え方になってしまっていた。罪悪感や強迫観念的な考え方が自分を支配していたのである。
大人になるにつれ、罪悪感や強迫観念的な考えにプラスして、怒りが湧くようなことが起きても「怒ることは恥ずかしいこと」と思わされ、怒りを感じることもできず、どんどん負のスパイラルに陥ってしまった。そういうことが人間関係に大いに影響してしまった。影響するだけならまだしも、自分でも気づかないうちに、母親が自分にしているのと同じようなことを他人にしていたのである。このことから、「人とうまく付き合えない」「みんなと楽しいことをしていても孤独を感じる」「自分は人から認められることはないし誰もそばに居てくれない」などという考えにとらわれ、人間関係で悩む原因となってしまった。
なぜそうなるのか。そういう親しか見ていないためそうなるのである。
しかし、当の本人は、こういったことが起こっても「自分が悪いから」「自分が弱いから」などと思いがちで、決して自分が過去の親のせいでこのようなことに陥っているとは微塵にも思わなかったのである。こういうことは、他人から教えられることもなければ、自分から気づくこともなかった。自分にとって重大な出来事が起こって、初めて何かおかしいと気づいたのである。
おかしいと気づいたら、一番いいのは母親から離れることである。実際、母親から離れることにより、自分に向き合える時間ができた。自分自身と向き合うことにより、自分の人生を本気で考えるようになった。
しかし、過去から付きまとっている罪悪感や強迫観念的思考、恥ずかしさが、変化しようとする心の邪魔をしてくる。この邪魔者により、「自分の人生はこんなもの」「どう頑張ったって変わることはできない」と思ってしまうことも一度や二度ではなかった。ある意味、他人と比較して自分を卑下してしまっていたのである。
こういった考えが起こったのは、自分の意識が外側に向いていたからであった。自分の意識を内側に向ける、すなわち自分の感覚を大切にするようになると、少しずつ変化が起きていった。
自分の感覚に意識を向けていると、今まで自分が良しと思っていたものが、実は他人の基準で良しと思っていたことや、自分には合わないと思っていたものが、他人の意見に左右されて合わないと思っていただけだったということに、往々にして気づいていったのである。
そのことに気づくと、違うと否定したい気持ちが出てきた。認めてしまうと今までの自分の人生が否定され、自分が築いてきた自分というものが壊れ去ってしまう、そんなことになったら耐えられないと感じたからである。しかし、気づいたことをしっかりと受け止めて認めることが、過去からの呪縛から解放される唯一の方法となった。
このことを繰り返していると、いつのまにか自分の中で変化が起こっており、過去の考えは小さくなっていった。過去のことを思っても、自分を卑下したり否定したりする自分はいなくなっていたのである。たとえ卑下したり否定したりする自分が出てきたとしても、「またやってるなぁ」と俯瞰して見られる自分になっていた。自分が、他人に影響を受けているときに思いがちだった考えは出てこなくなり、自分の考えで人生を歩めるようになっていったのである。
大人になるということは「強い自分になること」ではなく、「何かを成し遂げること」でもない。「どのような自分であっても自分自身を受け入れる」「常に素直な自分でいる」、その上で自分らしく生きていくということである。
信暁 (2024年4月11日)