とどまる、感じる、ひらく

《自分》という存在

2024年06月13日 18:48

 …… 映画が映されているスクリーンの存在を忘れているのと同じで、〈意識〉には見向きもしない傾向がある。スクリーンはあらゆる映画における不変の性質だが、それ自体として映画に絡むことは決してない。映画は、海や曲がりくねった長い道や殺人や山火事を映し出すかもしれないが、スクリーンは湿ったり移動したり血を流したり燃えたりはしない。同様に、〈意識〉もその内容に影響されず純粋であり続ける

 

 「誰がショーを見ているのか」『夢へと目覚める 明晰に生きることの贈り物』(レオ・ハートン著、古閑博丈訳 ナチュラルスピリット)より 


 この文章を読んだとき、自分の人生で起こる出来事(内面的なことも含めて)は、スクリーンに映る映画そのものであり、《自分》とはスクリーンそのものであると思いました。 

 外側で何かが起これば、自分自身の感情が揺り動かされ、そこで何か行動を起こしてしまうかもしれません。しかし、そのとき《自分》というものは変わっていないのではないでしょうか。たとえケガをしたとしても、身体の一部や外見が変わるだけで、《自分》という存在自体は変わっていないのです。

 

 例を挙げてみると、私は学生の頃よく女性に告白しては振られていました。今みたいにスマホがない時代でしたので、夜通し考えて書いたラブレターを渡したこともあります。電話をかけて告白したこともあります。しかし、すべて「ごめんなさい」ということでありました。このとき、自分は落ち込み「もう明日からは生きていけない」「相手の女の子とどういう顔で接したらいいのか」と思い悩んだりしました。次の日、学校に行きよそよそしい感じがありましたが、時間が経つにつれ普段の生活に戻っていきました。この一連の流れにおいて、いろいろな感情の起伏はありましたが、土台となる《自分》という存在はまったく変わっていなかったのです。

 

 この本には、次のように書いてあります。 

 星を見れば空間を無視し、この文章を読めばページを無視し、映画を観ればスクリーンを無視する。けれども、無視された空間やページやスクリーンが、我々の注意をつかんでいる星や文章や映画と同じくらい我々の観察の土台を成しているのは明らかだ。 


 この文章の中の「無視された空間やページやスクリーン」と同じように、《自分》という存在も、それを意識しながら生活することはほぼありません。先ほどの例では、告白する前は今までの二人の関係を思い出し、良い思い出から自分を奮い立たせ、「どうすれば相手に上手く伝わるか」「どうすれば相手に気に入られるか」と、言葉は悪いですが「どうすればものにできるか」ばかりに注意がいっていました。振られた後も、「もう穴があったら入りたい」「どうやって告白した相手と接しよう」「告白しなければ今までと同じような関係でいられたのに」などに注意を払っているだけでした。決して、自分自身に注意を向けるということはありませんでした。だからといって、注意を向けていない間は《自分》という存在がなくなっていたわけではなく、常に変わらず存在していたのです。

 

 今まで、自分自身の人生の中でさまざまな出来事がありました。嬉しいこと、楽しいこと、腹立つこと、喧嘩したこと、「死んでしまおうか」と思うくらい落ち込んだこと、悔しい思いをしたことなど、いろいろありましたが、《自分》という存在は、ずっと自分とともにあったのです。

 

 引用した本は、非二元論についての話ですが、非二元とか二元とか難しいことを考えずに読んでみると、私は、《自分》という存在がスクリーンであり、自分に起こる出来事はスクリーンに映っている映画そのものであると認識できました。だから、自分に起きていることは、《自分》という存在自体を脅かすものではなく、どんなことが起きようとも「自分は大丈夫」という意識を保てるようになりました。

 

 自分に起こるさまざまなことは、自分という土台のスクリーンを通して、その上で起こっているだけです。だから、何が起ころうともその土台に影響はないのです。 

 《自分》という土台があるということを認識できれば、何か事が起こったとしても右往左往することはなくなるのではないでしょうか。

 

信暁(2024年6月13日)