自分をみる
2024年06月22日 21:44
前回の記事の終わりに、自分の中の苦しみを「自分をみる」ことでひとつずつクリアしていったと書きましたが、今回はどのようにして自分をみていったのかということを書いてみたいと思います。
「自分をみる」にあたり、まずは「過去の自分自身を見つめ、認める」ということから始めました。しかし、すぐに行き詰まってしまいました。
マインドフルネスワークをするようになり、毎日マインドフル状態に入ることが日課になっていたある日の通勤途中に、突然「嫌や~」という声が聞こえました。それは自分の中からの声だったのです。
その数日後、休みの日に一人で家でゆっくりしているときに、少年時代に自分がどのように人と接していたのかということが、心の奥から出てきました。そして、それをすぐに書き留めました。これも前回同様、書き留めておいた文章があるので、そのまま載せます。
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自分の少年時代は、生意気で、人に弱みを見せたくない意地っ張りで、ひねくれていて、わがままで、頑固で、強情で、素直じゃなく、負けず嫌いで、プライドが高く、臆病で自信が無いくせにあるようなフリをするし、馬鹿にされないように賢そうなフリ、弱いくせに強そうなフリ、自分の中ではどうしようもなくなってるのに平気なフリ、人に良く思われたいから優しいフリ、自分のことしか考えてないのに人のことを考えてるフリなど、こんな感じで過ごしていた。
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その後、堰を切っていろいろなものが出てきました。
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僕には友達も居らんし、守るべき人も居らんし、一人でのたれ死のうと誰も悲しまん。悲しんでも一時だけやと。
だからいっそうのこと死んでしまおうかと思う。
今までのものが堰をきって出てきてる感じで本当に苦しい。
友達って何なんやろ?
家族て何なんやろ?
結婚て何なんやろ?
人は一人では生きていけない と言うけど、人と関係するてどういうことなんやろう?
人を信じるとはどういうことなんやろう?
人を信じようと思っても、噂や悪いことをいろいろ考え裏切られたと思ってしまう。
もう訳わからん。
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このような考えから、自分が存在している意味すらわからなくなりました。
マインドフルネスを続けていると、「自分の内面からいろいろなものが出てきて苦しくなったりもする」ということを言われていたので、「来たか」という思いと、「ここまで一気に出てこなくても」という思いが交差していました。しかし、マインドフルネスのワークをやめようとは思いませんでした。
訳がわからない状態のまま1か月過ごしました。この1か月の間には、手塚郁恵さんに「真剣に怒ったことがない」と言われたことを思い出し、「怒りを~~のフリをすることで誤魔化していたんじゃないのか」と自問自答する日々が続きました。
そして、1か月後のマインドフルネスのワークで、まず、歩くマインドフルネスによって安心感を取り戻しました。その後の別のワークでは、自分の中から怒りとともに「絶対後ろには(過去には)戻りたくない」「絶対前に行く」「何があっても、どんなに辛いこと、怖いことがあっても前に行く」と強い言葉が出てきて、それと同時に、自分を抑え込む人を引き連れてどんどん前に進んでいる自分が出てきました。
このワークをしたことにより、怒りを出すということがどういうことか少しわかった感じがありました。そして、自分がどうなりたくてマインドフルネスのワークをやりに来たかということの本質にも気づきました。単に「過去のことからくる苦しみが楽になれば良い人生が開ける」というだけではなかったのです。
この「何があっても、どんなに辛いこと、怖いことがあっても前に行く」を思い出したことがきっかけで、「過去の自分自身を見つめ、認める」ということを、覚悟を持って再度始めました。
上記の最初の文章を読み直し、少年の頃を思い出しながら、自分が友達にしていたことを吟味し、「あ~,こういったことをしていたから、友達が離れていったんだ」とか「こういうことをしていたことで、人を傷つけていたんだ」とか「怒って もいいはずのところで誤魔化した気持ちを出したから、相手の気持ちも離れて行ってしまったんだ」といったことに気づいていきました。
こういったことを一つひとつやっていく作業は、心の中にドリルで穴を開けられているような感じで、苦しい思いを伴いました。しかし、過去の自分はこうしないと自分自身が保てず、生きていけなかったんだということにも気づき、過去の自分を認めていくことができました。そして、認めることによって、過去を許す心も自然と芽生えてきました。
それまでは、自分の嫌な部分 (見たくない部分) は嫌な感情も含んでいるので、蓋をするように自分の中でないものにしていました。しかし、郁恵さんが「ネガティブな感情・感覚はなくさなくてもいい」と言っていたことを思い出し、心の中に自分の嫌な部分 (見たくない部分) の居場所を作ってあげました。
ネガティブなことの居場所を作ってあげると、2番目の文章のような訳がわからなくどうしようもないネガティブな気持ちが、落ち着きを取り戻していきました。そのうち、今までいろんな場面でネガティブが出てきていたものが、頻繁には出なくなっていきました。そして、「過去に振り回されるだけの人生は嫌。自分のまだ見たことがない人生を歩みたい」と自分の無意識の中に眠っていた思いが出てきたのです。
自分の本当に生きたい人生を歩むために、「何が出てこようとも」「どんなことが起ころうとも」覚悟を持って自分自身と向き合おうと思いました。
それ以来、何かあったときに自分自身と向き合いやすくするために、自分を身近に感じるようにしています。そして、いつでもマインドフルな状態に入って自分をみることができるようにと意識しています。
私が考える「自分をみる」ということは、次のような感じだと思います。
まずは、自分が未だに引っかかっている過去を見つめ直し、どんなに思いもよらないもの、自分にとって都合の悪いもの、認めたくないものが出てこようとも、それを認め、そんな自分であったことを許すということです。そして、自分のネガティブな部分は消えることはないので、自分の中から追い出すのではなく、自分の中に居場所を作ってあげるということです。そうすれば、ネガティブが突然顔を出すといったこともなくなり、自分自身がネガティブに翻弄されることも少なくなります。そして、マインドフルネスを続けていくと、「本当に自分がどうしたいのか」ということが、心の奥から出てきます。この出てきたものに対して、自分の頭で吟味するのではなく、素直に「自分がそうしたいんだ」と認め、それに従っていけばいいのです。
「自分をみる」方法は、それぞれ自分に合った方法があると思いますが、「覚悟」「認める」「許す」「素直」がキーワードになることは変わらないと思います。そして、このキーワードを支えているのは「愛」なのです。
最後に『ラディカル・アクセプタンス』という本の中の次の文章を載せて、終わりにしたいと思います。
(自分を閉じ込めている自己批判や不安感という)檻から抜け出すには、瞬間瞬間に起きている、自分と自分の人生経験すべてを、はっきりとした意識と思いやりで受け止めることから始まります。すべてを受け止めるとは自分自身を傷つける行動や傷つけられる行動を容認せよということではなく、自分のからだと心に起きていることを、コントロールしたり、批判したり、避けようとしないで、常に意識し続けるということです。これは「今」という瞬間に起きている現実を、あるがままに受け止めるという内面の取り組みです。哀しみや痛みに抗うことなく、誰かや何かに対しての欲望や嫌悪感を感じる自分を非難したり、それに対してすぐに反応することなく見つめるということなのです。
自分の中で何が起きているかを明確に捉え、そのプロセスを通して見える自分を優しく愛に満ちた心で受け止める、それが私のいうラディカル・アクセプタンスです。
『ラディカル・アクセプタンス:ネガティブな感情から抜け出す「受け入れる技術」で人生が変わる』(タラ・ブラック著、マジストラリ佐々木啓乃訳)
信暁(2024年6月22日)