からだが教えてくれたこと
2024年09月05日 18:06
今回のコロナによって、またまた気づきがありました。
現在は、コロナの後遺症により咳と倦怠感が残っています。咳は、特に夜寝てからが多く、減ってはきているのですが、夜中に数回咳き込んで眠れないということがまだ続いています。
毎日、寝るときになって「いつになったら咳が治まって寝れるようになるのか」「咳が出なければゆっくり眠れるのになぁ」ということばかり考えていました。そんなときに、ふと「咳が出ること」と、「眠れない」ということは一緒のように考えていたが違うのじゃないかと思いました。咳が出るということは、からだの中に異物が入らないように守ってくれているので出るもの、眠れないということは、単に眠れないだけです。それを、あたかも咳が悪者のように扱って眠れないのは、咳のせいであるとしていただけでした。
そこで、咳が出る通り道の喉から気管、肺までを感じてみました。そうすると、右の喉辺りだけが空気の出入りでこそばくなるのが感じられました。決して、咳がやみくもに出るのではなく、理由があって出ていただけです。そして、感じてみると喉の違和感も少なくなってきていたのです。咳にばかり気を取られていましたが、「だんだんと喉の違和感が少なくなってきているのだなぁ」と初めて実感しました。実感してからは、そのこそばい感覚のところを如何に工夫すればいいかを考えるだけで寝ることができるようになりました。途中、咳込みはしますが、今までのように咳き込んだ後、眠れないということはなくなりました。
1つのことに執着すると、周りが見えなくなり、結果、すべての悪いことの原因をこの執着しているもののせいにして、責任を擦り付けてしまうのだと理解しました。
こういったことがあったからかわかりませんが、突然、「今の自分の人生は幸せなんじゃないか」と降って湧いてきました。こんなことは初めてです。
最近読んだブッダの本(題名はわかりません)には、「幸せは日々の生活のなかで自分の目の前にあるものをみることによって感じることができる」と書いてありました。そのことが関係しているかもしれません。
この本に書いてあることと自分自身のことと照らし合わせると、過去のことに囚われすぎて、幸せに対しては現在の「いま、ここ」を無視していることに気づきました。何かある毎に、「過去にあんなことがあったから、自分の人生はこんなものなんだ」と考えていたり、「もう少し自分のことがわかっていたら、自分のやりたいことをしてお金にも苦労しなくても済んだんじゃないか」といった考えばかりにどっぷり浸かっていたりしました。確かに、ここ10年ほどで自分の内面をみることにより自分自身の考えに変化はありましたが、「幸せ」というものに対しては、あまりにも過去のことに執着していたために、感じないようにしていたのだと思います。
幸せなんじゃないかと思ってから「いま、ここ」での幸せを感じてみると、今の自分は幸せであると、心の奥から湧き上がってきました。コロナになっても、自分のことは顧みず、親身になって世話をしてくれる妻が居ること、少ないが一緒に心を割って話をする友達がいること、毎月ワークに来てくれる人がいること、行きたいところに行ける喜びがあることなどが、今の自分の周りにあるということを本当の意味で実感しました。「幸せ」というものは、こんなに身近にあるものなのだと今さらながら気づきました。
自分に起こったことにおいて、何か嫌なことが起きると、その原因を突き止めて、その主たる原因を排除しようとしてしまいます。主たる原因に執着するあまり、それを悪者に仕立て上げるのです。それにより、すべての原因を擦り付けてしまいます。しかし、本当は主たる原因は無いのです。すべては、変わりゆくものの中で起こっていることに過ぎないのです。だから、何事にも執着せずあるがままにすべてをみるということが必要であるということを、今回のことで強く思いました。
すべてはあるがままに.....。
信暁(2024年9月5日)