とどまる、感じる、ひらく

完璧主義は幼少期につくられた

2024年10月01日 16:29

 

 私はもともと完璧主義ではありませんでした。自分の好きなことをやりたいようにし、中途半端でも全然気にならなかったのです。父親に似たのでしょう。しかし父親以外、特に長男は、母親の影響を受けて完璧主義でした。父親は、ほとんど仕事で家にいませんでしたので、私は、完璧主義の母兄弟によって、完璧主義に育て上げられていきました。

 

 私が何かをするときには、きっちりするかどうか常に見張られている感じでした。特に掃除のときには、顕著でした。掃除が終わった後で、できていないところを指摘されました。それが年を重ねる毎にエスカレートし、掃除だけでは終わらず、勉強や服装、マナーなど何かにつけて言われるようになりました。本当に、息が詰まるような生活でした。

 

 そのようにされていたので、自分自身も知らず知らずのうちに完璧主義になっていました。それだけでなく、「こうするのが当たり前」という考えも備わってしまったのです。これによって、他人のできていないところも指摘し、きちんとやることを強要するようにもなりました。そのことが、自分を孤立する道にどんどん導いていきました。

 

 「自分は正しいことをしているのにどうしてみんなわかってくれないんだろう」「どうしてみんな自分から離れていくんだろう」と悩みました。しかし、悩んでも自分の奥底には、「自分は正しいことをしているのだから、わからない人がおかしいだけ」という変に強がりな考えがありました。 


 大人になり、自分と同じような考えの人が周りに集まるようになりました。自分と同じように完璧主義な人と話していると「そうそうそう」とか「そうなのよ」とわかりあえてよかったのですが、一人になるとなぜか虚しさを覚えることが一度や二度ではなかったのです。しかし、自分には行き場がないので、そういう人と一緒に連んでいました。一緒に連んでいる人も完璧主義なので、何か自分が中途半端なことをすると怒られたりもしました。もともとの自分は完璧主義ではなかったので、連んでいた人と一緒にいることが苦しくなり、自然と離れていくことも度々ありました。

 

 マインドフルネスをするようになってから、自分の奥底の感覚を感じていくことにより、完璧主義によって生き苦しくなっていたことにも気づいていきました。しかし、気づいたからといってすぐに消えるものではありません。それでも、完璧にやろうとするのではなく、自分のやりたいことをやりたいときにするように、ゆっくりと心掛けてするようにしていました。

 

 そうやって少しずつ、完璧主義でなくてもいられるようになってきたのですが、他人に対しては完璧主義の考えを求めてしまうことがまだまだありました。その時に、事件が起きました。自分の妻に対して、「こうするのが当たり前」という考えで「それはおかしい」ということを言ったのです。そうすると、激怒されて「それはほんとに自分の気持ちなの?」「自分が嫌でそうしないで欲しいというのならわかるけど、『ふつうはこうするものでしょ』という考えで言われるのは違う」と。 


 その時は、激怒された意味がほとんどわかりませんでした。こんな怒られ方をしたことがなかったからです。そのことがきっかけとなって、「こうするのが当たり前」という考えのもとで、自分がされて嫌だったことを、「常識」という言葉を使って他人に求めていた自分に気づきました。

 

 それからというもの、何かを言う前には、自分はそのことについて本当に自分の気持ちから思っていることなのか、自分だけが正しいと思っているだけなのか、単に世間一般や母兄弟から言われていたことに合わせようとしているだけなのかということを考えるようになりました。自分にとっても他人にとっても完璧主義を求めていないかを常に考えるようになりました。

 

 今では、自分にも他人にも完璧主義を求めるのではなく、優しい自分になれるようになりました。時には、完璧主義的な考えも出てきますが、それに気づいた後は手放し、そんな自分を優しく包み込めるようになりました。

 

 一見すると、完璧主義は良いように見えますが、自分にも他人にも厳しくなり自分自身を雁字搦めにすることになります。それにより、自分が生き苦しくなり生きることも楽しくなくなってしまいます。

 

 もし、自分が常識的なことに囚われているのなら、幼少の頃からそうだったのか、あるいは完璧主義を誰かに植え付けられたのかを見ていくことをお勧めします。

 

 自分の囚われから解放されて、自由に生きていきましょう。 


信暁(2024年10月1日)