とどまる、感じる、ひらく

「安心・安全」の場所

2024年12月15日 19:01

 あなたにとって、「安心・安全」と呼べる場所はありますか? 自分の家という方もいれば、自然の中という方もいるでしょう。あるいは、瞑想中の自分の内側という方もいるかもしれません。いずれにしても、本当に「安心・安全」の中にいると、心が安らぎます。


 「安心」の中にいるときは、「自分の全身の力が適度に抜けている状態になる」といえるのではないかと思います。例えば、「ホッとする」や「ゆったりする」という感覚は、からだの力が抜けて安心を感じている状態といえるでしょう。

 「安全」というものは、「大丈夫」と思えることではないかと思います。例えば、住まいに関していえば、オートロックのマンションに住んでいるといったこともそうでしょうし、人間関係についていえば、人といて「自分の素が出せる」「自分が何をしても見守ってくれると思える」ということも「大丈夫」と思えることではないしょうか。


 「安心・安全」というものは、単純に言うと上記の2つが合わさったものだといえるかもしれませんが、本当の「安心・安全」というものは、それほど単純なものではないと私は思います。

 それは、人間にはいろんなものに対する「境界線(バウンダリー)」というものがあるからです。心もからだも、この境界線がしっかりとあるとき、「安心・安全」を感じられるのだと思います。この境界線がない(弱い)と、心は外側の状況に対し無防備にさらされている感覚となり、簡単に外側から侵入されてしまいます。そのため、常にからだは緊張状態で安心できず、どこにいても「安全」と安らぎを感じられなくなってしまいます。人は自分の外側に対してだけではなく、自分の内側においても「安心・安全」を感じることで、本当の意味での安心・安全を感じることができるといえるでしょう。


 子どもの頃は、親きょうだいからの影響を受けやすいため、境界線の侵害が起こりやすいといえるでしょう。例えば、親からは躾という名目で、きょうだいからは喧嘩などの際に、言葉や行動により侵害されるということが起こります。

私の場合は以前のブログでも書いたように、家族からモラハラを受けていたことにより、家は「安心・安全」の場所ではありませんでした。いま思うと、家族からの過干渉により「ホッとする」「大丈夫」という感覚が自分の内面にはまったくありませんでした。そして、自分の外側においても、「いつ怒られるか」とびくびくしていました。境界線自体も過干渉による侵害を受けて、境界線がない(しっかり育っていない)状態でしたので、なおさら「安心・安全」の場所ではありませんでした。


 境界線は、強固なものではないので簡単に侵害されます。特に、幼少のころから侵害を受けていると、境界線を感じ取ることすらできません。私は、境界線があることすら分かっていなかったので、自分がびくびくするのは「メンタルが弱いせいだ」と思い、本を読み漁ったり合気道をしたりして自分の恐怖に立ち向かっていました。


 「安心・安全」というものは、自分と他人の間の境界線がないと感じることができないものです。

ですから、自分の境界線の内側(パーソナルスペースとも言います)で、「ホッとする」「大丈夫」と思える、からだの感覚を大事にすることが必要になってきます。

 外側の状況を変えなくても、自分の中の境界線をしっかりつくるだけでも、「安心・安全」の感覚を感じることはできます。「安心・安全」の場所は、境界線がつくる自分のスペースにいつもあるのですから。


信暁(2024年12月15日)