「どうすればよかったか?」
2025年02月22日 16:26
めずらしくドキュメンタリー映画を観ないかと夫が言うので、久しぶりに映画館に足を運ぶ。
『どうすればよかったか?』(藤野知明監督)は、統合失調症になった姉とその姉を家に閉じ込めてしまった両親を、弟である藤野監督が、長年にわたり撮り続けた記録である。
冒頭で、この映画はなぜ姉が統合失調症になったかを解明することが目的ではないし、統合失調症について知ってもらうことが目的ではない、という内容のテロップが流れる。この映画はあくまで藤野監督が「どうすればいいのか?」「どうすればよかったのか?」と自らに問い続け、そして観客に問いかける映画なのであろう。
やさしく聡明だった姉が、少しずつ壊れていき、ある夜中、突然大声でわめき始め止まらなくなる。家族は救急車を呼び、母がついて行くが、何でもなかったと姉を連れ帰ってくる。「まこちゃんはどこも悪くない、まこちゃんを病気だとするのはかえってまこちゃんによくないと先生も言っている」そう母親は言うが、これで何も問題ないはずがない、明らかに嘘をついている、どうすればいいのか……。ここから藤野さんの長きにわたる葛藤が始まる。
藤野さんの家庭は、両親ともに医学系の研究者で、お姉さんは幼い頃から医者か研究者になることを目指していたという。藤野さん自身も研究者になることを当たり前のように考えていたそうだ。成績のよかったお姉さんは、医者か研究者になる以外の選択肢を、初めから自分に許していなかったのであろう。しかし、4浪して医学部に入った彼女はしだいにおかしくなっていく。
そんな状態をどうすることもできず、藤野さんは大学卒業後、逃げるように家を出て、他県に就職する。やがて映像の専門学校に入り、家族の記録を取ることを思い立つ。そこには、何もできなくても逃げ続けるわけにはいかないと考える藤野さんの決意を感じる。まともに向き合うことが難しい状況に、レンズを通して向きあうということが、うまく緩衝材になったのかもしれない。
スクリーンに映る藤野さんの実家の映像は、お姉さんと両親の日常を赤裸々に映し出す。昔、研究に使っていた高価な機材や資料とおぼしきものなどが、すでにゴミとしか言いようがないものとなって、そこかしこに積み上がっている。そうした過去の遺物を片付けようともせず、薬品の瓶類までも冷蔵庫の中にまでぎっしり詰め込んでいる母親。すでに大学に行けなくなってしまっている姉に、毎年、国家試験だけは受けさせようと諦めない父親。こちらから見ていると、ふたりとも明らかに常軌を逸しているし、精神疾患ではないにしてもグレーゾーンであることは否めないと感じる。
藤野さんは、何とかお姉さんを病院に連れて行こう、この閉じた空間に第三者を介入させようと、必死で家族との対話を試みるが、閉じてしまった狭い世界で生きている両親には通じない。見ているこちらも、この両親には何を言っても無理だろうなと感じてしまう。
お姉さんは、発病から二十年以上が過ぎて、ようやく入院し、合う薬が見つかったおかげで3カ月で退院する。それでも藤野さんは、もっと早く何とかできなかったのかという思いに苛まれていたようだが、藤野さんは自分ができる精一杯のことをやり切ったのだと私は思う。それだけの長い間、家族を見つめ続けるというのは並大抵のことではないし、おそらくその間ずっと、自分自身の過去や弱さと向き合い続けたのであろう。他者にもアドバイスや助けを求めていたのだと思う。それは本当の勇気がないとできないことではないか。
映画の後半で、お姉さんにステージ4の肺癌が見つかる。藤野さんはお姉さんがやりたいことを何でもやらせてあげようと、いろんなところに一緒に出掛けたり、誕生日やクリスマスなどを一緒に祝ったりするシーンが続く。それが、幼い頃とっても優しくしてくれたお姉さんに対する藤野さんの贖罪のように感じ、何とも言えない気持ちに襲われた。あなたはもう十分なことをしてきたのだから、自分を責めないで、何も苦しまないで、そう伝えたい気持ちになった。
観終わってしばらくは、お腹の辺りが重く、あの家の中に自分も閉じ込められていたような重苦しい気持ちがあった。その感覚が過ぎ去ったあと、あの映画から私が感じたものは何だったんだろうと、改めてその受けとったものをじっと感じてみた。私の中から浮かんできた言葉は「愛」だった。
愛の反対は憎しみではなく無関心、という言葉を何度か聞いたことがある。であれば、無関心を装って逃げることをやめ、レンズを通して姉を、両親を見つめ続けた記録であるこの映画に流れる通奏低音を「愛」と表現しても、きっと間違いではないと思う。
穏やかで、やわらかで、奥に激しさを秘めた愛……と。
2025年2月22日
ゆり